植物(花)や岩石鉱物など大地に根差した自然のものは何でも好きです。また人為であっても古いものには興味があります。東京都と神奈川県の境界ぐらいの郊外都市に在住。周辺の市街地と多摩丘陵を中心として、近場に残された自然を探検しています。時々丹沢山地、相模川流域、三浦半島などにも足を延ばしています。

ホトトギス(花)

 

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  ホトトギスが咲き始めた。10月ぐらいまで咲き続ける。ユリ科にしては花が小さくその代り数多く花をつける。あまり目立たないが、近づいてよく見ると実にユニークな色・模様をしていて驚く。

 画像の花は、まるでコバルト色の蛍光を発しているようである。独特の斑点模様も抑え気味で上品だ。里山を残した公園の林縁の湧き水の近くに群生していた。タイワンホトトギスという種類と思われるが私には見分けがつかない。

 欲しくなってネットで調べてみると販売されている園芸種も結構あるようである。近いうちに手に入れたいと思っている。

キツネノカミソリ

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 8月初めに雑木林の縁の日蔭で群生しているのを見かけた。なんで今頃ヒガンバナが咲いているんだと思ったが、近縁のキツネノカミソリであった。ヒガンバナより色がくすんでいて、花びらも枚数が少なくてあまり反っていない。花の形からユリ科と近い関係にあることがわかる。

 名前の由来だが、調べたところ、昔の「剃刀(かみそり)」は一枚の花弁に似た小刀形をしていたとのこと。そして葉がなく花だけが突然現れることから「狐の仕業」と思われた。だからキツネノカミソリ。葉はヒガンバナと同じように春先に出て枯れてしまうそうである。

 確かに妖しい感じであるが、照り付ける太陽を思わせる花は猛暑の夏にふさわしいと思う。

テッポウユリ

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 近くの住宅街で一斉に白いユリが咲きだした。花弁に筋があったりなかったりなので、テッポウユリタカサゴユリもしくはその雑種だろう。ヤマユリのような模様が入っていないので清々しい感じがする。

 住宅街なのだが、民家の庭だけでなく、道路際や線路際の斜面などにも分布している。植えられたものではなく、もともと咲いていた野山が開発されてしまったのかもしれない。

 今後も真夏に咲き続けて欲しい。

オニドコロ

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 葉の形からヤマノイモと思っていたこの植物。花が咲いてようやく別種のオニドコロとわかった。よく見ると葉が大きくて丸っこくムカゴがついていない。イモは苦く毒だそうである。食べられないから「オニ」、「トコロ」はよくわからないとのこと。

 この花は2ミリ程しかなく、若い芽と同じ薄緑色なので全く目立たない。しかし拡大すると、半透明の六弁の花がひも状のもので連なっており、クラゲの幼生みたいな動物的な印象を与える。ちょっと不思議な感じがして好きである。

サルスベリの花

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  サルスベリの花が盛りだ。今年は6月末から真夏の暑さが続いていたが、景色がいつもと違うと感じていた。7月末にこの花が咲き始めると「ああこれだ」と感じた。それほど夏のイメージだ。青い空、白い雲に良く映える。

 花全体を接写で撮ろうとすると、構図が決まらない。しばらく色々と試してみてようやく気付いた。花と思っていたのは一枚の花びらであり、六、七枚の花びらが黄色い雄しべ雌しべの周りを取り巻いていたのだ。まるで中と外が違う色の打ち上げ花火が大きく広がっているような様子だ。この画像では、花を横から見たものが2.5輪写っていることになる。今日まで気付かなかった。少し感動した。

ササゲの花

 

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 ササゲというのは畑で栽培される豆の一種である。実(さや)が30cm以上にも伸びてぶら下がるので「ササゲ」というのか。長いインゲン豆みたいな感じだ。さやの中に入っているのは小豆色の小さな豆で、実際小豆の代わりに赤飯に使われる。

 ササゲの花は薄赤紫色で上品な感じがする。背中合わせに二輪ずつ咲き、花の後は二本ずつ長ーい実が垂れ下がる。独特の風情があり、好きな花だ。陽が高くなると萎んでしまうので、観るなら朝が良い。

イド(Id)の怪物

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                    (しながわ水族館

 

 人間の意識下の攻撃性のようなものを、「イドの怪物」と言うらしい。妻との会話の中でそれを使うと、どうやら貞子みたいな「井戸の中の怪物」と誤解したようで、話がトンチンカンになってしまった。私も、しっかり意味を把握しているわけではないので、ちょっと調べてみることにした。

 

 フロイトは、人のこころを、「自我(Ego)」、「超自我(Superego)」及び「エス(Es、ドイツ語)、英語でイド(Id)」の三種類に分類した。

 自我とは、自分が自分だと思っているもので、人間が社会の中で生きていくために必要不可欠な、こころの主体である。一方、超自我とは、自我の内部にあって、自我を監視しているものである。簡単に言えば、「良心の声」である。

 そして、エス(英語の「イド」)とは、無意識の中にありあらゆる欲動を含むもので、ひたすら欲動を満足させようとする。自我のエネルギーはエス(イド)から供給されている。

 私は、何らかの要因で意識レベルが低下した時に、その人の行動や言動に出てくる、「恐ろしい本性」のようなものを指して、「イドの怪物」と言った。1957年アメリカのSF 映画の名作「禁断の惑星」に出てくる、姿の見えない凶暴なモンスターがこう呼ばれていた。(ネタバレになるといけないので詳細は自分で調べてください。)

 私が、これを実感したのは、20年以上前に、大変痛い尿管結石で入院した時である。病室は三人部屋で、一人は全身チューブと包帯の、手術直後の中年男性だった。もう一人は上品そうな老人で、何かの手術後らしく麻酔が効いていて眠っていた。私は鎮痛剤で何とか痛みが治まり眠りについていた。

 その夜半、大きな声で目を覚ました。見るとその老人が目を張り裂けんばかりに開いた恐ろしい顔で、術後で動けない男性に意味不明な罵声を浴びせており、そのうちにチューブを引きむしり始めた。ちょうどその時看護師たちが入ってきて取り押さえた。その後、おそらく鎮静剤を打たれたのであろう、おとなしく寝てしまったようだ。看護師さんたちはチューブの人の移動や後片付けで大わらわであった。私は大部屋に移ってくれと言われた。

 翌朝、その病室のドアが開いていた。気になって覗いてみると、件の老人が子供夫婦や孫たちに囲まれて話しているのが見えた。絵にかいたような上品な好々爺の顔であった。

 

 

 その老人は、麻酔が醒めた半覚醒状態で、自身の無意識の攻撃性(イドの怪物)が露わになったのではないか。そして、その攻撃性は弱い者に向けられた。私は当時ガタイが大きく若かったのでスルーされ、術後で動けない中年男性の方に向かった。暴れた老人は、実生活では社会的地位も高く、家庭的にも恵まれているのであろう。しかし、その上品な紳士面(づら)の意識下にあるのは、他人への攻撃性、要するに弱い者いじめである。これが原動力になって、実社会での成功につながっているのではないかとも思う。

 結果的に、私を含めて周りの人間は貧乏くじをひかされた。その老人は広い三人部屋を独占してノウノウと朝まで寝ていた。きっと何も覚えていなかっただろう。

 人の謎の行動の奥底にはこんなことがあるのではなかろうか。